HISTORY
第十話
2004年2月16日、一番最初に路上で歌った場所は渋谷のハチ公の裏で井の頭線の方に渡る信号の横だった。
黄色いアンプにシルバーのキーボードスタンドにローランドのキーボード。
マイクスタンドは忘れたのでキーボードスタンドに装着できる簡易的な物を渋谷の楽器屋で買った。
音は当然滅茶苦茶だった、、(笑)エコーとかも付けられないアンプとカラオケ練習用の一番安いマイクの組み合わせじゃ無理もない。
キーボードスタンドの前には、自分の横顔のアップに奥華子と書いてある看板をぶら下げてた。
持って行ったCDは500枚限定販売の300円の奥華子完全手製の赤いCD(2月11日~通販開始)である。
3日に一回ぐらいの割合で渋谷駅、代々木公園、新宿駅を渡り歩いた。
おまわりさんに怒られながら、一人で全てを持って原宿駅から歩道橋を上り代々木公園を越え、渋谷駅まで歩き、また怒られ新宿駅まで電車移動。かなり重労働に加え、さらには津田沼まで帰る。
満員電車での人の目との戦いは想像を絶する物があったと予想された。
当時、僕は車で運んであげることを一切しなかった。「とにかく一人でやる!」それが大切だった。
スタジオでの録音が本業である僕はなかなか路上の時間帯には付き合えなかったが
奥華子は僕のスタジオが終わって現地に行ける時間に合わせてそれまで歌っていた。
状況は携帯電話で聞いてはいて「60枚売れないと帰っちゃダメ!」といつもハッパをかけていた。
だが帰ってくる言葉は「バランスが解りません?」「音がガーガーいいます?」
「また止められました!」「30枚ぐらい売れたのでもう帰りたいです、、」
「誰も止まってくれません、、」「人が歩いていません、、」「もう疲れました~、、」
「駅の階段が重いです、、」今にも泣き出しそうな声で訴えていた。
結局、渋谷、新宿では一度も60枚を売り切ったことは無かった。
その間、機材は毎回のように変えては思考錯誤を繰り返していた、エコーも買ったが調整できずじまい。
相変わらず滅茶苦茶な音だった。たまにエンジニア仲間に「何処そこでやってるから
音の事、見てやってくれない?」と頼んだりしながらほとんど好き勝手に、適当にやらせていた。
そして、終了間際に行っては、何かが違う?地味?暗い?、、。新鮮さといか?、、。
聞いてて面白くない、、。そんな事ばかり考えていたし、言っていた。
4月25日のスプーマでのカフェライブから新しい青い手作りのCDを500円で売り始めた。
収録曲は「小さな星」「涙の色」「私の右側」「愛されていたい」
赤い300円の500枚限定のCDはほぼ完売していた。そして路上ライブから姿を消した、、。
最後に頼って歌う曲は相変わらず「その手」「自由のカメ」「楔」だった、、、。
ある日僕は奥華子に告げた。
「昔の曲は一切歌わないで、封印して!、、」
2004年4月の終わり、まだ一度たりとも千葉で歌った事はなかった。