HISTORY
第九話
新しい事務所は社長の産休と共にメジャーメーカーへのアタックも一旦停止状態となった。
今後の見通しは付かないまま考えられる事は「わずかに余っているお金でインディーズでミニアルバムでも作ってあげて、解散、、」以外にはどう考えても思いつかなかった。
何年も業界にいる人間にとっては誰もが同じ事しか考えないだろう?と思うくらいに決定的に先は無かった。
日々の奥華子はというと相変わらず寿司屋とコンビニのバイト漬けで、たまにライブに出させてもらってはノルマに達せず、追加のお金を払っていた。
結局ミニアルバムですら作らずじまい、唯一やってあげられた事はというと、ライブ会場で販売できそうな300円売りの4曲入りの弾き語りの、もろ自主制作っぽいCDの録音だった。
彼女が選んだ曲は「雲よりも遠く」「鳥と雲と青」「虹色の目」「そんな気がした」の4曲だった。地下室に閉じこもり、まる2日間、一生懸命歌っていた。
それ以外の曲もいろいろ録音したのだが、なぜかこの4曲に決まった。
エコーをつけて、ちょちょっとバランスを取ってCDに焼いて「ハイ!出来たよ!」「有難うございました!」
って感じでCD-Rを一枚渡しただけだった。
2週間に一度ぐらいしか更新しないHPに「300円のCDが出来ました!ライブ会場で販売します!
メールオーダーも受け付けます!500枚限りの限定販売です!」
ジャケットは一枚の紙に自分で撮った横顔のアップと歌詞カードが書いてあるのを丁寧に折り込んであり比較的綺麗な仕上がりになった。「コクヨのこの種類のこの紙じゃないと綺麗にプリントできないし、、」
とか言いながらCDをパソコンで焼いては一枚一枚丁寧に作っていた。
手垢は付けない、指紋も付けない、、異常なこだわりで、袋詰めに僕は参加させてはくれなかった(笑)
そのくせCD-Rの盤面は銀色だったり白だったり文字が入ってるのやらで、そこにこだわりが無いのが、かなりおかしかった、、(笑)
1回のライブで20枚ぐらい売れた。500枚ってなかなか大変だよね、、と思ってるそんなある日、突然、彼女は
「私、路上ライブやってみたい、、」「みんなCDとか売ってるし、、」と言い出したのだ、
僕としては余り乗り気ではなかったのだが、「この子が一般の人々にどれだけ通用するんだろう?」
見極められるチャンスかも?という事と機材は何を使う?電源はどうしよう?
というような事は職業柄、楽しめるかも?という事で「いいねえ、やってみようか?」という事になった。
そしてここからが大変だった。一番考えた事は、アンプ、キーボード、スタンド、マイク、CD、、全てを一人で持って電車に乗らなければいけないことだった。なおかつ機材を買うお金が無い、、。
ある種冒険だったので、社長に「お金を出してください!」とは言えなかったし、
どこかで「まだ、メジャーデビューのチャンスはあるかも?残ったお金はその時に、、」
いやっ、違う、、事務所にあるお金を使い切って機材を買ってしまう事イコール、
自らデビューへの道を絶ってしまう事になるという予感があったのかも知れない、、。
話は戻って、アンプは一番小さい充電式の黄色い奴で30000円。キーボードはローランドの一番軽いやつでヤフオクで6000円、マイクはカラオケ用の1500円、スタンド類も超コンパクトな物を探した。
CDを入れるリュックもヤフオクで赤いのを買った。
キーボードの電源用にビデオカメラ用のバッテリーをネットで探したりで約一週間ぐらいかかってようやく手に入れた。
結局、奥華子の持ち物の中で一番高価な、いつもライブで使っていたキーボード、
宝物のコルグのTORINITY(当時20万クラス)をヤフオクで60000円で売って路上セットを揃えた。
キーボードがプロ使用からローランドの6000円(おもちゃクラス)に変わったことに関して、本人の中ではかなりの勇気だったと思う。
当然、音は聞くに堪えがたかった。
しかし、彼女は持って歩ける軽さを選んだ、、
とにかく歌える事を選んだ、、
「椅子は?、、」「もうこれ以上持てません、、」
「大丈夫です、、私、立って歌います、、、、」
2004年1月 奥華子はリセットされた。