HISTORY
第五話
2002年暮れ、メジャーメーカーはやはり「明るい」「派手」「つかみ」
「サビの盛り上がり」というフレーズをやたら好んだ。
「春風」はいいとしても「楔」「境界線」は暗い、、、。
まだ、微かな望みを残し録音したのは「talala」だった。
しかし、残念ながらその後トラックダウンをすることは無かった、、。
ただのエンジニアとアーティストの卵の間柄ということでプライベートな話はもちろん
世間話すら一言たりとも喋った記憶は無い。
「おはようございます」「ヘッドフォンのバランスは大丈夫ですか?」
「すみません、エコーを少し増やしてください」「お疲れ様でした」
全てはこの言葉だけでのコミニュケーション、全てはこれだけで仕事にはなった。
感じていた事は一つ「このアーチストはこのままではきっと駄目だ、、」
だからと言ってどうするわけでもなく、、。自分の力ではどうにもならず、、。
唯一したことは携帯番号が入っている名刺を奥華子本人に渡したこと、
「何かあったら電話ください、、」「あっ、はい、、」
自分の中で妙な確信があった、「この子はいずれ困って電話してくる、、」
(後日談、本人は憶えてないらしい、、笑)
2003年に入り事態は一変。
「インディーズでアルバムを出すので宜しく、、」
遂にメジャー路線は諦めたらしい、、。
「弾き語りで数曲、プレゼン曲を数曲、簡単なアレンジ物を数曲をまとめて録音するので宜しく、、」
「そうなったんですね、わかりました、有難うございます」
ちゃんとギャラは出るんだろうか??ちょっと不安ではあったが受けてしまった。
当時はまだインディーズの仕事は予算の関係とステイタスとして受けたことは無かったし、鼻っから話は来なかった。「クレッセントスタジオ所属のフリーエンジニア」というだけで妙なプライドがあった。
アップライトピアノでの弾き語り、「グランドピアノを弾いてる感じにしてほい、、」
うっ、、??とは思ったが「はいっ解りました、、」と答えてしまった。
しかし始めて見ると、全くそれ以前の問題だった。
「何も伝わってこない、、」「感動できない、、」
「誰に歌ってるのか?」「自分?目の前の5人?数百人の観衆?」
ただ、ピアノを弾いて歌を歌っているだけだ、何かが足りない、力が、オーラが無い、、。
やっぱし、インディーズとはいえこのままCDを出してはいけないような気になって来た、、。
もっと良くなる要素は持っているような気がする。
電話は無かったが、歌そのものが「私、困ってます、思うように歌えないんす、、、」
と言っているように聞こえてならなかった。
弾き語りの録音は2~3日続いた、
ある時、僕は「今のどう?」っと後ろを振り向いた、
そこにはジャッジすべきディレクターもプロデューサーも、
誰もいなかった。。。