HISTORY

第十六話

その頃の路上ライブの重要スポットは、柏、津田沼、船橋、町田、新百合ヶ丘、
西葛西で、たまに行ったことの無い駅に出向いて行き、いろんな発見が楽しかった。
この頃からHPでの告知はしなくなり、チラシ配りを手伝ってもらえそうな
ファンの人達には個人的に事前に電話して手伝ってもらっていた。
ファッションはだいたい、ロングのワンピースにブーツだったりTシャツに
チノパンにスニーカー。
メガネはしたりしなかったり、そして手焼きしていたCDは遂に
業者にお願いする事になった。
「一回200枚として、月に15回の路上ライブで、、まずは3000枚作ろう!」
「業者に出すなんて、高く付くからやめよう!」とせっせとパソコンで焼いていたのが、
結果としてはあまり変わらず、手間も省けて盤面も綺麗だった。
何もかも、世間知らずのまま赤いルノーキャトルと共にまるで珍道中は続いた。

「これ路上じゃなくて全国のCDショップに置いたらどうなんだろう?」
「でも500円売りじゃあ仕入れてくれないよね~」
「ん~。。じゃあ違う曲で普通にシングル盤として出したらどう?」
「そうだね~、それいいね~!」
かなりの期待感とワクワク感でがぜんやる気になった!
曲は最近「銀色の季節」から歌詞を変えて路上でも歌い始めた「花火」だ。
何となく暗黙の了解で決まってたし、優ちゃんも初聞きで「鳥肌が立った!」って
言ったし満場一致!
「これ8月26日発売にしましょうよ!」「時期的にいいね~~!」
優ちゃんの一言でなぜか決まった。
「で、なんかその日あるの??」「いやっ。別に。。」「えっ、、??」
「まっ、いいか、じゃあ業者さんにお願いしに行こう!」
全てが、かなりテキトウだった、、(笑)

「あの~この間スターパインズカフェでお会いした奥華子って言うんですけど、、
インディーズのCDを8月26日に出したいんですけど、どうすればいいんでしょうか??」
「はあ~っ??、、今からじゃあ全然無理だよ!、まず審査があって、
それに通ってから3ヶ月後リリースだから早くて10月頭だな!それが普通だよ~。」
「えっ??花火っていう曲なんで8月に出したいんですけど、、」
「ごめんね~~曲はなかなかいいんだけどね~~」

ヤバイ!路上ライブではもう「この曲を全国で出す事に決めました~~!」
って言って盛り上がってるし、どうしよう??
インディーズ流通業者に電話しまくり、結局、なんとか引き受けてくれる所を探した。
大手ダイキの子会社のジグソーミュージックという所だった。

「カップリング何にする??」「ん~~前にデモで作ってもらった
タララがいいんじゃない?オケも派手だし!シングルっぽいし、、」
「じゃあ、負けないように花火もアレンジしてもらう??」
「ん、そうしよう。。。」「誰かやってくれるかな~~??」
「講師やってる学校に行って聞いてみるよ、、」
「卒業生でプロもいるし、、」「ん。。」
古株の先生に紹介していただいた、延近さんという方にお願いする事になった。
アレンジバージョンは「おおっ、、いいね~~」「ん、いいね!」
「で、さあっ、やっぱり奥華子は路上で弾き語りがメインなんだから、
弾き語りバージョンも入れない?3曲目に!」
「そうだね、、じゃあ俺が仕事から帰ってくるまでに、
地下でツルっと録音しといてね、、」「ハイ、、、」

それからが大変だった、何日も何日も録音しても声が震えて聞こえて
どうしようもない、、。
「なんで、、??」「路上のそのまま録音する??街ノイズ入りで、、」
「いやっ、、がんばります。。」
結局ダメ、、、苦悩の日々が続いた、「だいたい一人で地下で歌うとこうなる、、
歩いてる人を見ないと歌えないんだろうか、、?」
そして考え付いた最後の手段は、環境を変え、クレッセントスタジオで
ベーゼンドルファーインペリアルという、世界最高級の生ピアノで録音しようと
決めたのだった。
マイクも最高級のノイマンU-67(いつも路上で使ってるマイクが100本買える、笑)

そしてお金は掛ったが、最終的に15テイクぐらい歌った中から、
最高の花火ができたのだった。

「これいいよねぇ!」「やっぱし弾き語りなのかなぁ~?」
「CDショップの人に聞いてみようか?」という事で津田沼タワーレコードの
マネージャーさんの戸石さんを訪ねて聞いてみた。
「あの~駅で良く路上ライブやってる奥華子って言うんですけど、、」
「知ってますよ~!」
「今度、CD出したいんですけど、同じ曲のアレンジバージョンと弾き語りバージョと、
どっちを一曲目にしたらいいか悩んでるんですが、どっちが良いと思いますか??」
間髪入れずに「そりゃあ、あなたなら圧倒的に弾き語りですよ!
森山直太朗は桜を2バージョン出したんだけど100万枚売れたのは弾き語りですよ、、」「あっ、解かりました、、有難うございます!」
一言で終わった、、でも嬉しかった。世の中の通常はアレンジバージョンがメイン。
奥華子と言えども同じようにアレンジしないといけないような気になっていて、ただ、そういう事は奥華子にはちょっと違う!っていう気もしていたのが、
一瞬にして晴れたような気分だった。

2004年6月末

インディーズシングル「花火」
~弾き語りの方が好きだ!ピアノと声から伝わって来る波動は強烈だった!~

第十五話

赤いCDと青いCDの2種類を、合わせる約1500枚ぐらい焼いて袋詰めしてた頃
僕は前にお世話になった事務所に報告がてらに挨拶に行った。

「おかげさまで、路上ではありますがCDを売る事が出来るようになりました、
今だいたい1500枚ぐらいは手売りしました、、、」
「ほお~~凄いねぇ、、」
そして、、なんとなく情報は知っていたらしく、、、
衝撃的な言葉を耳にする事になったのである。
「あのね、福田さん、実はあなた達のやっている事は契約違反なんですよ、
実は、まだ別の契約が残っているんです、、」
「ええっ、、、だって、この間まで”これで自由になれるね!”って送りだしてくれてたじゃないですか~!」
「いやぁ~、私もそう思ってたんですけどねぇ、道義的にはそうかもしれませんが契約は契約なんで、、」

録音専属契約と言って、その契約する事務所の承認なしでは録音物を作る事は許されない、音楽業界では一般的な契約書で、通常は必ずCDメーカーと所属事務所とアーティストで結ぶ、一番核をなす契約書である。
さらに契約書の文中には、守秘義務がある関係上詳しくは言えないが、
かなり衝撃的な一節もあった、、。
とにかく頭が真っ白になってしまった、、夢は打ち砕かれ全ては終わったような気がした。
レコーディングエンジニアしかやって来なかった自分はこの世界では全くの素人だったのだ。
何も知らないで勝手に始めた自分が、かなり情けなく、惨めで、奥華子への申し訳なさでいっぱいだった。
冷静に考えれば事務所としてみたら当然の事であり、今までお金をかけて育て、
しかも何の利益も生み出さなかったアーティストである。
よそに行って、そう簡単に儲ける事はできる訳が無いのである。
そうする事で会社は成り立っているのであり、どこの事務所もそれは同じ事だった。
旧事務所、いや、今となってはまだ現行の事務所は何も悪くは無かった。
悪いのは自分だった、、二重のショックにかなりテンションは落ちた。

「これから先どうすればいいのか、、契約違反の罰則は何なのか、、
奥華子はもう路上に立つ事も、CDを売る事もできないのか、
奥華子にはなんて話そうか、、、」

「どうするかは、後日こちらで話はまとめておきます、、それでは今日はこれで、、、」

ただ、思い起こせば
「こちらの都合でもあるので、全ての契約を一つにまとめて(通常は複数の契約書を交わす)
ここにハンコを押せば、晴れて自由の身になれます、、、」という言葉だけを信じて、、、
何も考えずにハンコを押させた。
という事実だけ考えれば、やっぱり道義的には筋は通っているはずなのに、、。
考えれば考えるほど、悔しくて情けなくてどうしようもなかった、、。

後日
「こちらとしては、道義的な事も考慮し、×××××、、、という事でどうでしょう、、」
「、、ハイ解りました、、、」

内容は、今後の奥華子の将来を十分気遣って頂けた内容だった。
反論の余地はなかった。
象vs蚊みたいなものだった。
路上ライブを続けるには仕方なかった、、、。
言いたいことは山ほどあった、どうしてこうなったかの理由も、誰がいつ、どこで、どうなって、、
全て解っていた。
相手先の担当者も同じことは理解していたはず、、、心の中では、、
「道義上vs契約上」かなり勉強させてもらった気がした。
そして初めてプロデューサーとしての一歩を踏み出せた気がした、
かなり苦い一歩を、、、

、、誰も相手にしてくれなかったんだ、、、その人達を絶対に見返してやるんだ!
と、必死に作った「小さな星」「涙の色」「愛されていたい」「私の右側」
ここはこう弾いて、ここのタイミングはこうで、アクセントはこうで、、ダメだ!違う!、、
地下室に缶詰になって何テイクも録音し直した
「雲よりも遠く」「虹色の目」「鳥と雲と青」「そんな気がした」
一番大切だった8曲。

首都高を一人で思いっきり走り続けた、、前は見にくかった、、
音楽業界に入って二十数年、、一番くやしかった時、、

2004年6月吉日
大切な宝物
、、実は他人の物だった、、、

第十四話

以前500枚限定で手売りしていた300円の赤いCDについて話合った。
「なんで500枚限定なんだっけ?」
「限定!って言ったほうが売れると思ったから、、」
「でも、今、青いCDは500枚以上売れてるのに赤いのは限定だった
からって売らないのは変じゃない?」
「でも、300円で売ってたのを今後500円で売るのが変だから、、」
「はぁ~ん?、、ほしいって人がいるのに?、、すぐ作れるのに
なんで500枚で止める必要あるの?」
「う~ん、でも、この間まで300円で500枚限定だったので
もう無いんですっ!って言った人に悪いし、、」
「、、、」
「じやぁマスタリングし直してレベル合わせしてもう一回作ろう!」
「プロに頼んだんで500円に値上がりしました!って言えばいいよ、」
「プロ?、、」
「、、??、、はいっ、、わかりました、、」
って事で赤いCDが一夜にして500円にて復活した。
自宅地下スタジオは録音からパッケージまで、200枚作るCD製造工場
としては日本で一番速いんじゃないかと思った、、たぶん、、(笑)

津田沼駅も凄かったが、しかし、もっと凄い所があった。
柏駅だ、誰かが言った。
「路上のメッカ、柏駅で人が集まってCDが売れたら本物だ!」
「あそこの人達は耳が肥えてるから、そこ行ってチャレンジ
してみれば?」
なんとなく、鼻で笑われてるように聞こえた。
さらに自信も無かった、、(笑)
柏駅って言うと、日本全国からほとんどプロのような人達が
目をギラギラさせて何組もやっているイメージがあった。
恐る恐る行ってみると、予想通りだった。
駅に近づくにつれてドラムの音が大きく聞こえて来て
「うわっ、デカイっ!」
「こんな所であたしの音は何も聞こえないんじゃない?、、」
不安的中、、東口広場は数組のバンドからユニットやら
いろんな人達が頑張ってた。
「ここは無理だね、、」「恐るべし柏駅東口!」
ところが、、
「あの~、、人はいないかもしれませんが、反対側の南口の
乗り換え口だったら誰もやってませんけど、、」
バイトの優ちゃんと数人のファンの方々の声で南口に行ってみた。
「ん~?静か、、隠れ柏か?、、人いなそうだけど、、」
「でも大丈夫、ここでやってみようよ!」
奥華子の声ですぐに決まった。
実際はかなりの人が乗り換えに通る場所だった(笑)

・・・初柏・・・行って良かった・・・・

ちょうどその頃「路上告知用と、ライブを見てくれた人が
すぐに感想を書いてもらえるようになHPが欲しい!」
と言って、奥華子が携帯のHPを作り、PC用のHPは僕が作った。
そして、数人のファンの方がいつも見に来てくれるようになった。

○○君、□□君、△△ちゃん、、、まるで友達だった。
機材も持ってくれたり、チラシを配ってくれたり、CD販売も
手伝ってくれた。
大きな事務所にいた頃の「歌う人はアーチスト」
「聞いてくれる人はファンの人」
のある種、当然のような隔たりを僕は大嫌いだったし、
そうならないようにさせようと
「お前はただ道端で歌う税金もろくに払っていないただの人、、
みんなはきちっと社会に貢献していて税金もきちっと払っている
立派な人達なんだ、、」と、いつも言ってた(笑)

「未完成であり続ける事」「身近な有名人」
「音楽を趣味としない人にも届く歌」
奥華子の音楽を表現する為の基本の3本柱はこうだった。
常に流行と偏差値65以上の音楽性を追いかける
(少なくとも僕の回りの音楽業界はそうだった)
業界の秩序を真っ向から打ち砕いてやろうといつも考えていた。

初柏は236枚のCDが完売し、その後津田沼と柏は常に
300~400枚ぐらいのCDが売れた。
充実感もあったしファンのみんなと居る事だけで、
なんだか楽しかった。
そして、なんとなく自分も奥華子も少しづつ気持ちに
変化を感じていた、、。
それは何かと言うと、当初考えていた「メジャーデビュー」とか、
「3日で1000枚売る!」とかなんていう事は、まるで意味が無く、
まったくつまらない事のように思えるようになっていた事だった。
というより、まったく頭に無くなっていた。
「自分の見栄や欲望、肩書き、栄光、、、」を手に入れる喜びよりも
「実際に歌を聴いてくれる人々の感動の言葉や笑顔や涙、、」
が与えてくれた喜びの方が何倍も何十倍も嬉しく、
尊い物だと思うようになっていたのだった。

2004年の6月
~今までで一番充実した1か月間~

第十三話

生まれて初めての津田沼駅、世田谷から車で向かったが遠かった。
以前、幕張の機器展とモーターショーに行った時に確か「こんな遠いん
だったらもう来たくない!」と言っていた自分を思い出した。
ザウス(屋内スキー場)とか、野外シアター?(駐車場から車にいながら
にして映画が見られる)で、
船橋は有名だったが、津田沼は更に先に位置している。

とにかく、かなりの人が流れて行く、駅前の2Fのデッキも広い!
「よしっ!やってみよう!」
小さな星、涙の色、小さな星、涙の色、小さな星、涙の色。
たまに、雲よりも遠く、愛されていたい、虹色の目、楔、、。
渋谷とは違った、、見る見る間に人だかりが出来た。

「凄いっ!」
誰かが、500円のCDに手を伸ばすと、瞬く間にCDが売れて行った。
そのつど、奥華子は演奏を休憩し、チラシ配ったり、お釣りを渡したり
CDを渡したり、バイトの優ちゃんと2人は大忙し。
誰かが「サイン下さい!」というとみんなが並んでサインを待ってくれた。
なんだか良く解らない”目玉マーク”だ!(笑)
でも、奥華子はず~っと嬉しそうだった。
ず~っとニコニコしながら話しをしながら
最後の最後までサインし「すみません、握手させて下さいっ!」と
自分から声をかけていた。
「近所の人が通ったら恥ずかしい」「同級生が通ったら恥ずかしい」
と言っていた以前の奥華子はそこにはいなかった。
あったのは、聞いてくれている人々に向いた、ただ真っ直ぐな眼差しと、
サインの時に両手でお客さんの片手を包み込むように、
何かを願うように握手する姿だった。
照れ笑いしながら「そうか~、、」と言うおじちゃんもいれば
「あんたうまいね~」
と言うおばちゃんもいる、女の子も男の子も、スーツ姿のサラリーマンも、
酔っ払って上機嫌な人達も、、、。

津田沼駅のデッキの一角は、ある種異様な空気と、人の熱みたいな、
なんとも言い表す事が出来ないアンビエントな世界が生み出されていた。

20:30~23:30の約3時間、「ピッチが悪い!」「唄が走っている!」
「ピアノ、違うとこ弾くな!」
怒鳴られながらも、立って歌う事がまだおぼつかなくてよろよろしながらも
一生懸命唄って、サインして、握手した。
持って行ったCDは全て無くなった256枚完売だった。

僕なりに確信はしていたものの、実際目の当たりにしてかなり戸惑った
「なんでなんだ~、、」「あんなに下手なのに、、」
「曲も普通だし、顔だって、、」
とにかく、一刻も早くこの現象はどうにかしないとけない、、。
とにかく、想像を超えていた。
興奮したまますぐに業界仲間に電話しまくった。
「路上ライブで256枚売れたんだ、、凄い事になるかも、、」
だが、、、。
誰も無名な路上アーチストになどに興味は示さなかったのだった。
、、ん~~、、どうしたら
「ああ~ん?なにそれ~?」
と驚いて、興味を持ってくれるんだろうか?

解った、、。
「3日で1000枚ぐらい売ればみんな耳を傾けてくれるにちがいない!!」
2004年6月2日津田沼路上ライブにて。

第十二話

なんとなく昨日の事がウソのような気がしてた、、100枚完売なんて、、
青い500円のCD1アイテムだった。
「突然どうしたんだろうねえ~?」
「メガネって関係ありますか?、、ん~、、関係無くない?」
「歌いづらい?、、ちょっと歌詞が見えづらいけど平気です、、」
「やっぱし、歌ってる時にチラシ配れてCDも売れるからじゃないですかね?」
「優ちゃんて凄いね、、笑」
「でもさ~、もう一回やってみないとわからないよね~?」
「ん、また同じ場所でやってみたいです!CD100枚持って」
「解った、じゃあまた作らないとね、、ハイ、、」
5月26日、また同じ場所で同じように歌う事にした。
一晩で100枚作るのはかなり時間が掛かったように思うのだが平気で作って来た。
それもそのはず、パソコンでCD-Rに音の焼付けを全部20倍速(高速コピー)でやっていたらしい。
「ああ~~ん?20倍なんて音悪すぎ!ダメだよー!最長4倍じゃないと、、」
「でも今までもずっと、20です、、、が~ん、、」
エンジニアとしてはかなり許せなかった、ジャケット面とビニール袋には指紋レベルで
こだわっているくせに、、音は何も解っていなかった。
その後はpiriスタジオでMacで4倍(通常コピー)で焼いた。
ソーテックのWIN98で一生懸命やった奥華子はかなりしょんぼりしていた。
、、しかし、、、しかし、、
なんと、実際に聞いて見ると奥華子WIN20倍のほうがpiriスタジオMac4倍よりも
明らかに音が良かったのである。というより奥華子の声に合っていた。
=20年のエンジニア人生でもかなり衝撃を受けた出来事であった=
そして更に似たような出来事がこの後も事ある事に起こった。
録音機材やピアノ音源、マイク、その他いろんな物に対して
ほとんどがプロ仕様よりもリーズナブルな物の方がマッチしていた。
<既成概念はあてはまらない!>
奥華子流のベースはこの時のCD-Rから始まった。

渋谷のハチ公横は全く一昨日と同じで、歌い始める度に立ち止まる人の輪が出来た。
青い500円CDはまた100枚完売。
「なんとなく面白くなって来た、自信がちょっと沸いてきた!」
5万円のお金にもちょっとびびっていた。
「ローソンの商品の銘柄なら全部言える!」と豪語していたフリーアルバイターに
してみたら無理も無い(笑)
「明日もやろうよ!」「なんだか凄いね~!」奥華子と優ちゃんの声は弾んでいた。
しかし、終わった後僕に近づく割腹の良い大人の方が一人、、

「凄いね~、デビューしてんの?一昨日も見てたんだけど、、いくら売れたの~??」
「それでね~、一応ここにはルールがあってね~、、」
「はあ、、そうなんですか??、じゃあ次は連絡させて頂きます、、、」
「宜しくね~~」、、、、、、。

「誰?今の人誰??」
「ん?、、ん~~、、しばらく渋谷は止めよう、、、目立ちすぎた、、」
「なんだか解らないけど、ちょうどいい!明日は津田沼でやりたいです!」
「絶対いっぱい見てくれるような気がする!」
「わかった、家に何枚CDある?」
「ん~20枚ぐらいです」
「ああ~~ん?誰が焼くの??」
「、、、ん??みんな、、、」
「何枚?、、200枚~~!!」
CDは売れて嬉しかったが、その後3~4日はほぼ徹夜だった。
スタジオのMac2台とWINノート1台で3台がフル回転。
千葉の実家では袋詰め作業がフル回転。

2004年5月26日、確信を得た日。
「大丈夫、届いてる!」

第十一話

渋谷駅での路上ライブを終え、その日も60枚には達っせず半べそで売れ残ったCDをリュックにしょって津田沼駅を降りた奥華子は決意した。
今まで、「知ってる人が通ったら恥ずかしい、、」という理由で一度たりともやった事が無かった地元の津田沼駅で路上ライブを勇気を振り絞って決行したのだ。
電話ボックスの横で、申し訳なさそうに、小さい音で、、、。
仕事中の僕に息を弾ませながら喋る奥華子の声が携帯電話から伝わってきた。
「今、津田沼駅なんですけど~予約取りました~!、今日は60枚全部売れました~!」
何言ってるのか良く解らなかったが、とにかくハイテンションで喋りまくっている。
「何の予約??」「だから、、私、明日の同じ時間にここにいまっすって言ったんですよ!」
「ああ~ん?」「だから、、今日はもうCDが無くなっちゃたんです。で、、明日、
CD持って同じ時間にここに立ってますから、、って言ったんですよ!」
「あっ、なるほど」「横で笛吹いてる人とかいたけど、、とにかく、みんな、
バーっと寄ってきてくれてCDが一瞬にして売れたんですよっ!!」
「だから、明日も来るんです、、津田沼は凄いです!、、でもエコーが付かなかったんです、、」
「ん~??」「まあっ、、とにかく良かったね、、」「ハイっ!」
これが始めての千葉、津田沼駅での路上ライブだった、そうとう嬉しかったんだと思う。
2004年の5月、渋谷O-WESTで学生主催の対バンライブがあった。
出演者はみんな知らない人ばかり、相手からしても奥華子なんて当然知らないミュージシャンだった。
僕は音響の専門学校の講師をしていた関係でそのライブに誘われ、運営もその専門学校だった。
そして、受付で出会った学生で「今、プロダクションでバイトをしているんですけど、そろそろ辞めるんです」
という女子学生に出会った。「えっ、じゃあ路上ライブのチラシ配りのアルバトしない?」
「あっ、いいですよ、路上ライブは慣れてますから、」「良し決まり!じゃあ次に渋谷でやるときに電話するね」
学校の生徒だという事もあり妙に安心で簡単だった。
5月23日、僕が仕事からまだ帰って無い為、事務所近くの商店街をフラフラ歩いている奥華子を帰宅途中の車の中から発見した。そして、そっと近づいて窓を開けて言ってやった。
「おい、こらっ、何、メガネなんてかけて気取ってんの~?、、」
「へへっ、、たまにはいいじゃないですか、、だって、この間、1000円で買ったんですよ、、」
「別に値段なんか聞いてないよ、、赤いのは変だよ~~赤は、、笑」
5月24日、スタジオ作業中、二人に電話した。
一人目、「もしもし、今日、この間言ってた奥華子って子の路上ライブを渋谷でやるんだけど来られる?」
「あっ、ハイっ、解りました、、」
二人目、「もしもし、あのさ~、、昨日かけてた赤いメガネ、、今日の路上ライブでかけて歌ってみて!」
「ええっ?かけながらですか?見えるかな~、、でも、、ハイ解りました」
昨日から、なぜか妙にメガネの事が気になってしまっていたのだ。
「今日はバイトの子も来るし100枚持って行こう!」
2004年5月24日渋谷ハチ公横、バイトの優ちゃん初登場。
初めて赤いメガネをして歌った日、、100枚完売。
※一説では「メガネ効果」と言っているが、真相はメガネをかけた同じ日から
バイトの優ちゃんが付いてくれた為、歌っている間にも
チラシが配れてCDも売れる環境になっただけの事の気がする。

第十話

2004年2月16日、一番最初に路上で歌った場所は渋谷のハチ公の裏で井の頭線の方に渡る信号の横だった。
黄色いアンプにシルバーのキーボードスタンドにローランドのキーボード。
マイクスタンドは忘れたのでキーボードスタンドに装着できる簡易的な物を渋谷の楽器屋で買った。
音は当然滅茶苦茶だった、、(笑)エコーとかも付けられないアンプとカラオケ練習用の一番安いマイクの組み合わせじゃ無理もない。
キーボードスタンドの前には、自分の横顔のアップに奥華子と書いてある看板をぶら下げてた。
持って行ったCDは500枚限定販売の300円の奥華子完全手製の赤いCD(2月11日~通販開始)である。
3日に一回ぐらいの割合で渋谷駅、代々木公園、新宿駅を渡り歩いた。
おまわりさんに怒られながら、一人で全てを持って原宿駅から歩道橋を上り代々木公園を越え、渋谷駅まで歩き、また怒られ新宿駅まで電車移動。かなり重労働に加え、さらには津田沼まで帰る。
満員電車での人の目との戦いは想像を絶する物があったと予想された。
当時、僕は車で運んであげることを一切しなかった。「とにかく一人でやる!」それが大切だった。
スタジオでの録音が本業である僕はなかなか路上の時間帯には付き合えなかったが
奥華子は僕のスタジオが終わって現地に行ける時間に合わせてそれまで歌っていた。
状況は携帯電話で聞いてはいて「60枚売れないと帰っちゃダメ!」といつもハッパをかけていた。
だが帰ってくる言葉は「バランスが解りません?」「音がガーガーいいます?」
「また止められました!」「30枚ぐらい売れたのでもう帰りたいです、、」
「誰も止まってくれません、、」「人が歩いていません、、」「もう疲れました~、、」
「駅の階段が重いです、、」今にも泣き出しそうな声で訴えていた。
結局、渋谷、新宿では一度も60枚を売り切ったことは無かった。
その間、機材は毎回のように変えては思考錯誤を繰り返していた、エコーも買ったが調整できずじまい。
相変わらず滅茶苦茶な音だった。たまにエンジニア仲間に「何処そこでやってるから
音の事、見てやってくれない?」と頼んだりしながらほとんど好き勝手に、適当にやらせていた。
そして、終了間際に行っては、何かが違う?地味?暗い?、、。新鮮さといか?、、。
聞いてて面白くない、、。そんな事ばかり考えていたし、言っていた。
4月25日のスプーマでのカフェライブから新しい青い手作りのCDを500円で売り始めた。
収録曲は「小さな星」「涙の色」「私の右側」「愛されていたい」
赤い300円の500枚限定のCDはほぼ完売していた。そして路上ライブから姿を消した、、。
最後に頼って歌う曲は相変わらず「その手」「自由のカメ」「楔」だった、、、。
ある日僕は奥華子に告げた。
「昔の曲は一切歌わないで、封印して!、、」
2004年4月の終わり、まだ一度たりとも千葉で歌った事はなかった。

第九話

新しい事務所は社長の産休と共にメジャーメーカーへのアタックも一旦停止状態となった。
今後の見通しは付かないまま考えられる事は「わずかに余っているお金でインディーズでミニアルバムでも作ってあげて、解散、、」以外にはどう考えても思いつかなかった。
何年も業界にいる人間にとっては誰もが同じ事しか考えないだろう?と思うくらいに決定的に先は無かった。
日々の奥華子はというと相変わらず寿司屋とコンビニのバイト漬けで、たまにライブに出させてもらってはノルマに達せず、追加のお金を払っていた。
結局ミニアルバムですら作らずじまい、唯一やってあげられた事はというと、ライブ会場で販売できそうな300円売りの4曲入りの弾き語りの、もろ自主制作っぽいCDの録音だった。
彼女が選んだ曲は「雲よりも遠く」「鳥と雲と青」「虹色の目」「そんな気がした」の4曲だった。地下室に閉じこもり、まる2日間、一生懸命歌っていた。
それ以外の曲もいろいろ録音したのだが、なぜかこの4曲に決まった。
エコーをつけて、ちょちょっとバランスを取ってCDに焼いて「ハイ!出来たよ!」「有難うございました!」
って感じでCD-Rを一枚渡しただけだった。
2週間に一度ぐらいしか更新しないHPに「300円のCDが出来ました!ライブ会場で販売します!
メールオーダーも受け付けます!500枚限りの限定販売です!」
ジャケットは一枚の紙に自分で撮った横顔のアップと歌詞カードが書いてあるのを丁寧に折り込んであり比較的綺麗な仕上がりになった。「コクヨのこの種類のこの紙じゃないと綺麗にプリントできないし、、」
とか言いながらCDをパソコンで焼いては一枚一枚丁寧に作っていた。
手垢は付けない、指紋も付けない、、異常なこだわりで、袋詰めに僕は参加させてはくれなかった(笑)
そのくせCD-Rの盤面は銀色だったり白だったり文字が入ってるのやらで、そこにこだわりが無いのが、かなりおかしかった、、(笑)
1回のライブで20枚ぐらい売れた。500枚ってなかなか大変だよね、、と思ってるそんなある日、突然、彼女は
「私、路上ライブやってみたい、、」「みんなCDとか売ってるし、、」と言い出したのだ、
僕としては余り乗り気ではなかったのだが、「この子が一般の人々にどれだけ通用するんだろう?」
見極められるチャンスかも?という事と機材は何を使う?電源はどうしよう?
というような事は職業柄、楽しめるかも?という事で「いいねえ、やってみようか?」という事になった。
そしてここからが大変だった。一番考えた事は、アンプ、キーボード、スタンド、マイク、CD、、全てを一人で持って電車に乗らなければいけないことだった。なおかつ機材を買うお金が無い、、。
ある種冒険だったので、社長に「お金を出してください!」とは言えなかったし、
どこかで「まだ、メジャーデビューのチャンスはあるかも?残ったお金はその時に、、」
いやっ、違う、、事務所にあるお金を使い切って機材を買ってしまう事イコール、
自らデビューへの道を絶ってしまう事になるという予感があったのかも知れない、、。
話は戻って、アンプは一番小さい充電式の黄色い奴で30000円。キーボードはローランドの一番軽いやつでヤフオクで6000円、マイクはカラオケ用の1500円、スタンド類も超コンパクトな物を探した。
CDを入れるリュックもヤフオクで赤いのを買った。
キーボードの電源用にビデオカメラ用のバッテリーをネットで探したりで約一週間ぐらいかかってようやく手に入れた。
結局、奥華子の持ち物の中で一番高価な、いつもライブで使っていたキーボード、
宝物のコルグのTORINITY(当時20万クラス)をヤフオクで60000円で売って路上セットを揃えた。
キーボードがプロ使用からローランドの6000円(おもちゃクラス)に変わったことに関して、本人の中ではかなりの勇気だったと思う。
当然、音は聞くに堪えがたかった。
しかし、彼女は持って歩ける軽さを選んだ、、
とにかく歌える事を選んだ、、
「椅子は?、、」「もうこれ以上持てません、、」
「大丈夫です、、私、立って歌います、、、、」
2004年1月 奥華子はリセットされた。

第八話

話は前後するが、当時の事務所での最後の仕事になったのが現在でも発売されている
女性ピアノ弾き語りアーチストを集めたオムニバスCD「カクテル2」の中に入っている「Rainy day」という曲で、2003年の春頃だった。
録音場所はキングレコードの関口台スタジオ。3時間という時間制限の為まず、事務所のスタジオで練習してから望んだ。
奥華子が初めてベーゼンドルファーというメーカーのグランドピアノを触った日でもあった。
この日の印象はかなり無口で暗く怖かった、、。表現は全て歌声にそのまま乗せていたような出来である。
結果としてそれが凄く良かった、しかし、本当はもっと良かったのだった。
5テイク録音した中で僕は迷わず3テイク目が絶対いい!と思って聞いていた。
しかしみんなの意見は違った。??なぜに??圧倒的に良いはずなのに、、?
その後4、5と録音を重ねるがピークは過ぎていたし、時間も迫っていたし、
これ以上歌っても悪くなる一方と思い、勝手に自分の中で5テイク目を「いい!」と
言わせよう!と決めた。そして5テイク目だけを少しピアノも
声も輪郭がわかりやすいような処理をしてみんなに聞かせた。予想どうり全員一致で
「これが一番明るくで元気がいい!」という事で5テイク目に決まった。
、、やれやれ、、、Rainy dayに明るさと元気さがなぜ故必要なのさっ、、
僕にして見れば3テイク目を選んでくれなかった事が全てだった、、。
怒り、暗さ、怖さ、、その時の奥華子が充分詰まったテイクであった。
今はもうどこにも残っていないのが悔しい、、。

その後「カクテル2」の発売イベントが各地で行われたり、南青山MANDALAで対バンのライブに出たりでライブ活動は少しではあるが続けていた。ただ、残念ながら「カクテル2」のCDが発売されたのは事務所を離れた後の一番暗くてつらい時期だったが故に出来は?と言うと
「何考えて歌ってんの?」
的なクオリティーであったことは言うまでも無かった。
「小さな星」以降も曲作りは延々と続いた、相変わらず怒り怒られの日々の中、少しづつではあるが曲は出来て行った。「銀色の季節=花火」「ブランケット=白い足跡」同時進行でライブハウスやメーカーへのプレゼンとしてのレコーディングも進んで新しい事務所は少しづつ動き初めていた。
「小さな星」「花火」「ブランケット」はアレンジャーの方に頼みその他、主だった曲は弾き語りでの録音をした。この時が初めてのpirisound studioでの録音だった。
マネージャーのS氏は方々を駈けずり回りプレゼンした。
メジャーアタック2回目。結果は、、前回と同じだった、、
、、2003年冬、、寒かった。

第七話

2003年6月、制作途中のアルバムを残して部署は閉ざされ奥華子は事務所を離れた。
「これからどうしよう?」と言ってる矢先に一人の女性が手を上げた。
「華ちゃんは絶対いい声持ってるんだから何とかなると思うよ!」
「何も持ってなくてもメディアで売れる人とは違う売り方すれば、、」
「あたしがマネージャーであなたはサウンドプロデューサー!」
「よしっ!決まり、残ってるわずかなお金でデモテープ作ってプレゼンし直そう!」
「ソニー、東芝、エイベックス、、だね、、ん」
「ただ、一回周ってるから違う曲持っていかないとね、、」「そうだね、まず新曲だ!」
そしてここからが凄かった、まず始めたのはパソコンの特訓。
デモテープはカセットに録音し、コードの事を「線」と言い、パソコンも月に2~3度の開封、ここまで機械オンチな女の子に「パソコンに音を録音しデータのやり取りをする」という高度な事を電話だけで伝授する事になったのだった。寿司屋とコンビニのバイトで食い繋いでいる彼女にとって1000円のコードも10000円の音楽ソフトも256Mのメモリーも全て高価だった。ヤマダ電機で買ったコードの種類はいつも間違えて損ばかりしていた。
ソフトはフリーの物を使った、メモリーはオークションだった。
音源は8000円、インターフェイスは6000円MIDIケーブルは500円、、ってな感じで始まった。
「まず、一番右の穴にさした線をこの間買った機械の一番左に入れて、、、、」
 毎日、毎日続いた、それも仕事の後から明け方まで、、。
電話代はいくらあっても足りなかった、インターネットでの説明も加わりさらに時間は延びて行った。睡眠不足の日々はこの後もかなり続いた。
当時、電話の向こうで、パソコンの向こうで奥華子はいつも声を詰まらせ、泣きながら、キーボードを打っていた。
時には「大人なんだから世の中に税金ちゃんと払わないと認めない!」
的なレベルの会話ですら怒って話していたし、怒られて泣いていた。
彼女の心の中の「ラストチャンスなんだ、、」「この毎日の苦痛は絶対乗り越えるんだ、、」
「過去は捨てて変身するんだ、、」の根性と気迫には凄い物を感じたし、
だからこっちも手を抜くわけには行かなかった。
だから怒り続けた、、変わらないと無理なんだと、、。
そして1~2ヶ月後には毎日のようにデータで音が送られてくるようになった。
しかし、、「暗い!」「つまらない!」「歌詞がいまいち!」「もっと身近な詩がほしい、、」
女性マネージャーと僕は言い続けたのだった。
彼女からしたら、一難去って又一難、の日々の連続だっただろう、、。
「あれっ?これいいじゃない?」「ん、、いいかもね、、」
最初に認めた一曲、、「小さな星」、、。

第六話

インディーズアルバム制作真最中、アレンジャーさんの来るまでの待ち時間。
スタジオ近くの赤坂のスパゲッティー屋で初めてアーティスト奥華子と二人で夕食を食べた。
味も人間もあまりにも普通だった。プライベートは見えない、アーチストとしてのオーラは感じない。
「黙ってそこにいるだけで絵にならなければCD出しても売れないだろ~な~、、」
ちょうどその頃、会社内部の部署の移動や整理がはじまっていた。
驚いた事に彼女が所属していた所は吸収され無くなるという情報が入って来た。
「ん?契約は?アルバムは?、、」「多分このまま無かった事になるのか?」「ちょうどいいかも?」
勝手に自分で思っていた。ただ、一般社会人として考えるに今までつぎ込んで来たお金は何らかの形で回収するはず。もしかすると無理やりアルバム出すのかも?宣伝力はかなり強い会社である。
良いのか、悪いのか、??予感は的中!どうも時期をずらして出す方向に向かっているらしい。
ここまでは納得、むしろ当たり前。しかし一つだけ腑に落ちない事があった。
、、本人は何も聞かされていない、、。という事だった。
解っていながらアルバム制作は続いた、一方では何も知らずに、何も知らされる事無く、ただ歌っていた。
僕も含め大人はズルイ?「音楽性が音楽性が、、」「もっとグット来る歌じゃないと、、」
「サビのインパクトが足りない!」「出だしの掴みが悪い!」「アイドルじゃないんだから、、」
「情景描写な歌詞が多すぎ、もっと迫る感じに、、」「ピアノのタッチが弱い!」「オケに合わせて!」
「カラオケでみんなが歌いやすくないと、、」「ピッチが悪い、リズムが悪い、、」
お金の計算をしながら大人は何でも勝手に言う、、。自分達はできないくせに、、。
後日、マネージャーから聞かされた奥華子はこう言った「私、辞めたいです、、独りでも歌います、、」
「でも辞めたいって言っても誰か面倒を見てくれる人がいないとどうしようもないだろ~?」
「たった独りじゃあライブにだって出にくいよ?」「誰かやってくれないですかね~?」
「分かったじゃあ誰か探してみようか~、、」
2003年3月奥華子はたった一人だった。相談できる人も一人しかいなくなってしまった。
売れないシンガーソングライターとレコーディングエンジニアの2人だけではたして何ができるのだろうか?
お金は何も無い、あるのはただで使える小さな地下の自宅スタジオと技術力、歌唱力、作詩曲力、ピアノ演奏力だけだった。
2003年3月29日 自由ヶ丘LA RUE
20人のファンの前で生ピアノ、生声で歌った「そんな気がした」を初めて聞いて僕は決めた!
、、「この子を売って見せる!」、、

第五話

2002年暮れ、メジャーメーカーはやはり「明るい」「派手」「つかみ」
「サビの盛り上がり」というフレーズをやたら好んだ。
「春風」はいいとしても「楔」「境界線」は暗い、、、。
まだ、微かな望みを残し録音したのは「talala」だった。
しかし、残念ながらその後トラックダウンをすることは無かった、、。
ただのエンジニアとアーティストの卵の間柄ということでプライベートな話はもちろん
世間話すら一言たりとも喋った記憶は無い。
「おはようございます」「ヘッドフォンのバランスは大丈夫ですか?」
「すみません、エコーを少し増やしてください」「お疲れ様でした」
全てはこの言葉だけでのコミニュケーション、全てはこれだけで仕事にはなった。
感じていた事は一つ「このアーチストはこのままではきっと駄目だ、、」
だからと言ってどうするわけでもなく、、。自分の力ではどうにもならず、、。
唯一したことは携帯番号が入っている名刺を奥華子本人に渡したこと、
「何かあったら電話ください、、」「あっ、はい、、」
自分の中で妙な確信があった、「この子はいずれ困って電話してくる、、」
(後日談、本人は憶えてないらしい、、笑)
2003年に入り事態は一変。
「インディーズでアルバムを出すので宜しく、、」
遂にメジャー路線は諦めたらしい、、。
「弾き語りで数曲、プレゼン曲を数曲、簡単なアレンジ物を数曲をまとめて録音するので宜しく、、」
「そうなったんですね、わかりました、有難うございます」
ちゃんとギャラは出るんだろうか??ちょっと不安ではあったが受けてしまった。
当時はまだインディーズの仕事は予算の関係とステイタスとして受けたことは無かったし、鼻っから話は来なかった。「クレッセントスタジオ所属のフリーエンジニア」というだけで妙なプライドがあった。
アップライトピアノでの弾き語り、「グランドピアノを弾いてる感じにしてほい、、」
うっ、、??とは思ったが「はいっ解りました、、」と答えてしまった。
しかし始めて見ると、全くそれ以前の問題だった。
「何も伝わってこない、、」「感動できない、、」
「誰に歌ってるのか?」「自分?目の前の5人?数百人の観衆?」
ただ、ピアノを弾いて歌を歌っているだけだ、何かが足りない、力が、オーラが無い、、。
やっぱし、インディーズとはいえこのままCDを出してはいけないような気になって来た、、。
もっと良くなる要素は持っているような気がする。
電話は無かったが、歌そのものが「私、困ってます、思うように歌えないんす、、、」
と言っているように聞こえてならなかった。
弾き語りの録音は2~3日続いた、
ある時、僕は「今のどう?」っと後ろを振り向いた、
そこにはジャッジすべきディレクターもプロデューサーも、
誰もいなかった。。。

第四話

2002年の8月の終わり、今でも憶えている、久しぶりに行った田舎のラーメン屋にいた時のことだった。
S社ブッキング担当のTさんから電話がかかって来たので外に出た。不思議なもので小さい頃から見慣れた光景を懐かしく思いながら喋ると電話とはいえこんな遠いところまでわざわざ恐縮です、、
と普段の倍ぐらい頭を下げながら喋った内容はこうだった。「奥華子の事なんだけどね、今度インディーズも含めいろいろ考えてるらしく、彼女の音楽に好意を持ってくれてる福田さんにぜひサウンドプロデュースという形で関わってほしいとMさんが言ってるんだけど、、どう?」、、
ん~~?好意は別に持っては無いんだけど、、?
フォークはあんまり好きじゃないし、、?何なんだろう、、?要はこういう事か!ととっさにによぎったのは、
「ただ低予算でエンジニアをやってほしいだけの事なんじゃん、、プロデュース兼って事でのただ働きの時間を増やしたいだけってわけか、、」まっ、でも面白そうだから引き受けよう、、
「あっ、そうなんですか、、じゃあ是非やらせていただきます、次はライブの音合わせの現場ですね、、有難うございます、、」佐渡ヶ島の小さな商店街の道端で携帯片手に何回頭を下げたんだろう、、(笑)
予感は的中した。リハスタジオの中で、サポートの若いギタリストと練習をしている彼女の顔が物語っていたのはこうだった「、、どうしてレコーディングエンジニアの方がここに来ているのですか?、、」だった。
なるほど、、全てを察した僕の頭の中はこうだった。
「きっとMさんは本人には何も告げてない、、サウンドプロデュース?、、ただ働き、、笑、、しかしなんらかの形で自分がここに来た事のメリットを示さない事には自分が許せない、、それはもはやこのケミュニケート不足&低製作費思考(売り上げが無いアーティストにおいては全く当たり前の事とフォローしておくが、、)のこのスタッフに任せておいても無理な話である、、
あと、このピアノに合わせるこのサポートギター君が全くサウンドしてない、、
でも、ピアノのフレーズを変えれば何とかなるかも??だが、自信に満ち満ち溢れている(本人後日談より)本人は変えるつもりは微塵もなさそうだ、、そして、3日後に迫ったスターパインズのライブまでにいろいろいじるには時間が無さすぎ、、
しかし、このアーティストはこれでいいのだろうか??、、、根本的なところのアドバイスをする人がいない様子だし、、」
だった、その後サポートのギター君に一言二言ピアノとの音域の事を話して終わった。
小さな体から満ち満ち溢れた自信は、大きな組織スタッフに挑まなければならない大きな不安の裏っ返しのような力強くも、どこか切ない声でスターパインズカフェのライブは終わった。
打ち上げには十数人のスタッフが参加した、もちろんメジャーメーカーのプロデューサーを気持ちよくさせるだけの為に、、
「、、ふ~ん、すごいんですね~、エライんですね~、、海外に何回も、~ふぉ~やっぱ違うは~、」
どこの国の何が美味しいって?何すばらしいって?ふ~ん、、
(そんな話より、○○通りの○○ラーメンがめちゃくちゃ美味しい、みたいな話のほうが、心底笑えるのにね、、笑)
、おいおい!、、みんな~!、、??
そんな事より何より、この子の明るく振舞う中にも時折見せる不安そうな顔付きと切ない声に興味はないのか?、、
明るいんだか暗いんだか解らない小動物は檻の中でもがいているかのように思えた、、
檻によって小動物も全てが変わるのだろうか?魚は水槽の大きさによって体の大きささえ変わるとよく聞く。
、、自分自身なんとなく檻と小動物に興味が沸いて来たのかも、、
-2002年9月18日スターパインズカフェ-
月光、泡沫、木もれ陽の中で、その手、Rainy Day、自由のカメ、楔

第三話

「楔」「境界線」「春風」この3曲のアコースティクギターとピアノと歌の録音と
MIX(TDとも言い、いろんな楽器のレベルを整えたり音を変えたりエコーをつけたりしたものを2チャンネルにまとめて録音し、一般のCDプレーヤーで聞けるようにするための大本を作る作業)をやった。
初めて奥華子の歌を録音した時の印象は「まるで花岡幸代だ!、しかも同じハナちゃんって呼ばれてた!
歌はこっちの方が下手だけど、、」だった(笑)
花岡幸代というアーチストは10年前に僕が録音したアーティストでギター1本での弾き語り系アーチストだった。
鼻声っほい所もかなり似てる、、だからハナちゃんなのか、、?(笑)
(後日解った事だが、当時奥華子のライブでよく付いてくれたPAのエンジニアは、そのまた昔、花岡幸代のレコーディングで僕のアシスタントをしてくれてた人だった。「やっぱし何かあるのかも?」とかなりの偶然に驚いた。)
アレンジャーは3曲とも宇多田ヒカルの「Automatic」で有名な西平さんだった。
「うあ~凄い、メジャープレゼン音源が西平さんか~凄いよ!」と言った事を覚えている。
さすが業界では有名なS社だ、お金はいくらでもあった、、。
当時はそんな事ばかり考えていた、いったい誰の録音をするんだったっけ?ってな感じでね(笑)
スタジオで録音した音のデータはそのまま家に持ち帰り、家のコンピューターでMIX作業をした。
さすがに西平さんのアレンジはかっこ良かったし音も良かった。
出来上がった3曲の中での一押しは「楔」で、プロデューサーのN氏も売り込み意欲満々、マネージャーを含めスタッフの売り込み体制も満々となった。
以後、興味を持ってくれたメーカーはソニー、東芝、avexだった、何人もの方々がライブを見に来てくれた。
しかし、、残念ながら結果はどこも手を上げてはくれなかったのであった。
メジャーからCDを出すということは色んな要素が折り合わなければ契約までたどり着かないのが現状で、それは曲、詩、サウンド以外の部分、権利の問題とか見た目とかメーカスタッフの個人的趣味とか、、。
奥華子も例外では無かった。
そして、当時の僕個人の印象はというと
「決まらなくて当たり前、どう聞いても曲や声の印象よりも西平さんしか感じないし、歌が弱い。そして音程が全部少しづつ低いし、残るのは”お金がなくちゃ何もできないんだ~”のワンフレーズのみ、アイドル系でもないし、ん~~、、」だった。
世間話をするでもなく、ただただしょせん他人事のレコーディング仕事だった、、。
後で聞いた話だが、その時の音源の「楔」と「春風」は一度だけコミュニティーFMで流れたらしい、、

第二話

奥華子って言うんだ、あの子、、。
でもなんだかやたらエコーが多い変なサウンドだ、、。
やけに素人っぽい歌とエコーが第一印象。
で、「自由のカメ」と「月光」というタイトルは憶えている。
「ただ、今は?」と言うとやっぱし「素人っぽい歌とエコー」な事には変わらないのがおかしい、、(笑)
最初っからその気も無かったのでマネージャーのM君に会っても送られてきたCD-Rの件に関しては何ごとも無かったようにお互い触れなかった。
こういう事はよく有る世界、それがまかり通る業界なのである。
そしてそのまま普通に終われば何ごとも無かったはずなのにどうしても奥華子という文字を目にする機会が増えてしまった。
何かと言うと、スタジオの鍵を預けている守衛さんの所にある入退室の記録簿だ、「退12:55奥華子 入12:58福田」みたいな、、。
「ああ~っ?さっき女の子が出ていったばっかしだよ~?」
という守衛さんの声を何回聞いたことか、、(笑)
奥華子は定期的にスタジオに通い、一人でピアノと歌の練習をしていたらしい、、。
何もわざわざここ迄来なくたって、家で練習してればいいのに、、まっ「事務所に通う!」ってだけでプロになったって思えて嬉しいもんかも、、と勝手に思ってはいた、、(笑)
一度たりとも、どちらかが遅く、どちらかが早い、と言うことが無かったことは今思うと不思議だ。
ある日プロデューサーのNさんから電話が掛かってきた。
「あっ、福田君?、うちに奥華子って新人がいるんだけど、、」
「ええ、知ってます、、(記録簿で)、、」
「えっ、知ってるんだ?じゃあちょうど良かった、、今メジャーに持って行くプレゼン用の曲の録音してるんだけどMIXだけお願いできる??」
「あっ、はい大丈夫です、、、」
これが初めて奥華子との仕事。
2002年の6月だった。

第一話

初めて出会った、というか見たのは2001年の終わりの頃だったと思う。
エンジニアの仕事で出かけたSスタジオでの出来事だった。
少し早めに着いたので前の仕事を覗いてみるとそこには
S社のマネージャーのM君がコンソールの前で渋い顔をしながら四苦八苦していた。
M君とは以前から高橋洋子さんやLyricoの仕事で一緒だった顔なじみだ。
レコーディング機器の細かいところまでは知らないM君はほっとした顔で叫んだ。
「ああっ~、福田さんちょうどいいところに来た~!」「どうしたの?」
「ん~、なんか声が変なんですよ?ぜんぜんこっちに来ないんですよ?」
「マイク裏っ返しにでも立てたんじゃないの~、、笑」「どれどれ?」
ヴォーカルブースに入って見るとそこには誰か女性がいたような気がしたが
なぜか記憶に残って無い。
「やっぱそうじゃん、、駄目だよ~反対向けたら、、」
「あああ、、すすいません、、」
「これでよし、で、何やってるのM君、オーディション??」
「いや、うちの事務所で見つけてきた新人なんですよ、デモテープ作ってるんです」
「紹介します、、この方はエンジニアの福田さんです、、」
「あっ、初めまして○○○と申します、、」
何と言ったか記憶にない、、しかし、地味な風貌で目がちっちゃい、、
「弾き語り?」「はいそうです、、」なんかこっちまで暗くなってきそうな雰囲気をかもし出してる、昔の山崎ハコみたいなんだろう、、。
どっちにしろ、いろんな意味で興味が沸かない感じ、自分には関係無いだろう、と思ったのでただただニコニコして
「ん~そうなんだ、頑張ってくださいね、、」「はい、、」と中身の薄い会話で締めくくった。
その後、コントロールルームの中でしばらく歌を聴いてたが、何歌ってたかは今だに記憶にはない。
帰り際、M君が言った「福田さん、今度この子のプロデュースしませんか?」
「ええ~?、ん、いいねぇ、、」「今度デモテープまとめて送りますよ、、」
その子と歌には何も興味は沸かなかったがプロデュースという言葉にはちょっと興味はあった。お互い業界ノリの、ただ口だけが動いている挨拶でその場を去った。
数日後、本当にCD-Rに焼かれたデモテープが送られて来た。
奥華子と書いてあった、、。